夕方、家に帰ると、いつもなら玄関まで走ってきてくれる娘がいなかった。
「ただいま」
と言っても返事がない。
あれ?と思ってリビングに入ると、大きめの段ボールが置いてあった。
その中に、娘が隠れていた。
最初は、かくれんぼでもしているのかと思った。
「見つけたぞー」
くらいの軽い気持ちで声をかけた。でも、どうも様子が違う。
段ボールの中から出てきた娘の顔は、いつもの顔ではなかった。
しょんぼりしている。
明らかに何かをこらえている顔だった。
「どうした?」
と聞いた瞬間、娘の中でギリギリ保っていたものが崩れた。
いままで聞いたことがないくらい大きな声で泣いた。
泣くというより、叫ぶに近かった。
パパの胸に顔を押しつけて、
「悲しい」
「悔しい」
と泣いた。
話を聞くと、その日、学校で運動会のリレー選手の発表があった。
でも、娘の名前は呼ばれなかった。一年生から三年生まで、娘はずっとリレーの選手に選ばれていた。
だから本人の中では、今年も選ばれると思っていたのだと思う。いや、思っていたというより、
「自分はリレーの選手になるものだ」
くらいに感じていたのかもしれない。でも、名前は呼ばれなかった。
その瞬間、どれだけ悲しかっただろう。クラスのみんながいる前で、自分の名前が呼ばれない。
選ばれた子の名前が呼ばれていく。その場で泣きたかったはずだ。でも娘は、学校では泣くのを我慢したらしい。
その話を聞いて、パパも涙がにじんだ。
たかが小学校のリレーでしょ。そう思う人もいるかもしれない。
でも、子どもにとっては、その世界が今の自分の中心なのだ。
大人にとっては小学校の運動会でも、娘にとってはオリンピックくらい大きな大会なのだと思う。
悔しくて、悲しくて、受け止めきれない。その気持ちは、とてもよく分かる。
正直、パパは何と声をかければいいのか分からなかった。
「大丈夫だよ」
と言うのは簡単だ。でも、いまの娘にとっては全然大丈夫ではない。
「来年があるよ」
と言うのも簡単だ。
でも、今年選ばれなかった悲しさは、今年の娘にしか分からない。
「気にしなくていいよ」
なんて言えなかった。だって、気にしているから泣いているのだ。悔しいから泣いているのだ。
だから、パパはしばらく何も言わずに抱きしめた。10分くらい泣いていただろうか。
「悔しい」
その言葉を何度も言っていた。
娘よ。その気持ちを覚えておくんだ。悔しいと思えることは、悪いことではない。
本気だったから悔しいのだ。選ばれたいと思っていたから悲しいのだ。最初からあきらめていたら、そんなに泣かない。
どうでもよかったら、そんなに苦しくならない。だからパパは、その悔しさを持っている娘を誇りに思う。もちろん、泣いている娘を見ているのはつらかった。
できることなら、代わりにパパが落ち込んであげたい。でも、これは娘が自分で受け止めるしかない悔しさなのだと思う。
娘は、今まで足が速いほうだった。一年生、二年生、三年生とリレーの選手に選ばれてきた。
でも、学年が上がるにつれて、ただ走るのが好き、ただ素質で速い、だけでは勝てなくなってきたのかもしれない。体も大きくなる。筋力も必要になる。フォームも大事になる。スタートも、腕の振り方も、足の使い方も、全部大事になる。
そして何より、学年にはダントツで速い子が二人いる。ちょっと公園で練習したくらいで、その二人に簡単に勝てることはない。
でも、娘が本気で悔しがっているなら、パパも本気で付き合いたい。
今年はリレーの選手にはなれなかった。でも、徒競走はまだある。
だったら、徒競走で学年一位を目指そう。誰よりも速く走って、証明してやろう。
「選ばれなかった自分」で終わるのではなく、
「あの悔しさがあったから強くなれた」
と思えるようにしてあげたい。
そして、来年の今頃。もう一度、リレーの選手を目指そう。努力して、練習して、自分の力でつかみ取りにいく。その経験を娘にさせてあげたい。
リレーの選手になれるかどうかは分からない。簡単ではない。でも、悔しさをきっかけに努力することはできる。悔しいと思った日から、何をするか。そこに意味があるのだと思う。
子どもが泣いているとき、すぐに正解の言葉を探してしまう。
励ましたほうがいいのか。慰めたほうがいいのか。気持ちを切り替えさせたほうがいいのか。
でも、今日は何を言っても違う気がした。だから、ただ抱きしめることしかできなかった。
パパは相変わらず、肝心なときに気の利いた言葉が出てこない。でも、ひとつだけ思った。
娘が本気で悔しがれる子でよかった。泣くほど本気になれるものがあるのは、すばらしいことだ。
今年、娘はリレーの選手には選ばれなかった。でも、パパはこの日の娘を忘れないと思う。
段ボールの中で、悲しみをこらえていた娘。パパの胸で、悔しいと叫んで泣いた娘。
その涙は、きっと無駄にはならない。来年の運動会まで、あと一年。
父と娘のリレー選手奪還作戦が、ここから始まる。
