この投稿はお受験に関係ない話です。
パパのひとり語りなので、お受験の参考にならないことを最初にお伝えしておきます。
長女が小学生になって、自分が小学生の時に親からどのような教育を受けたのか?を振り返って考えたこと、思い出したこと、いつか娘が親になったときの参考になる(ならないかもしれないが)ここに残しておきたいと思います。
パパは庶民である。
庶民という言葉の定義を調べると
となっている。
ということはやはりパパは庶民であるが、子どものころは庶民よりも下の生活をしていた。
親のインカムレベルは低く、学生のバイトくらいの収入で一家四人が生活していた。
庶民よりも暮らしぶりのレベルは下なのに、背伸びして庶民ぶっていた。
自分にはそうゆうところがある、人に良く思われたい、嫌われたくない、優れていると思われたい。
そうゆう気持ちが心の深淵から湧き上がってくる。
その理由は知っている。
子どものとき、クリスマスプレゼントは見たことがない劣化コピーキャラクターの石鹸(母親が人からもらったもの)だったり、ゲームやおもちゃを買ってもらうこともすごく限られていた。
生活費がギリギリの状態で、子どものおもちゃ=娯楽に使う余分なお金は存在していなかった。
なにかを買うというのは食費が減ることを意味していた。
家にはお風呂がなかった。
ミニマリストよりもミニマム。
選択権はない無条件ミニマリスト。
壁には父が酔ってパンチした跡があり、小さな穴があいていた。
古いアパートなので、アメリカンフットボール選手が10人で体当たりしたらアパート全体が倒れるかもしれない簡易的な作りだった。
隣の居住者の会話が聞こえてくる薄い壁。防音という概念はない。壁伝導機能がついているレベルでなんでも聞こえてくる。パンチ穴からは隣人の居間のテレビがみえるんじゃないか?と本棚を置いて見えないようにしていた。
どんな時代ですか?
戦後まもなくの話ですか?
いつもなぜかイライラしていた父親からは理由なく、怒鳴られた。
冬に外に立たされたこともある。
何度も。
布団でグルグル巻きにされ、暗闇の押し入れに閉じ込められたことも。
今なら虐待で通報されるような仕打ち。
自分はつねにビクビクしていた。父に怒られるのが恐怖だった。
することがなくてもいつも外で遊んでいた。
外にいたら父という脅威から離れられたからだ。
外で走ったり、サッカーしたりで体力はついたが、自分の正直な感情を人に伝えるのが苦手になっていた。
父親が原因で、自分がなにか言うと相手から嫌われるのではないかという恐れが生まれてしまった。
ビールが入ったグラスを父親が投げつけて、ふすまにはコップのあとがついた。
その父も自分が中学に上がる前にいなくなった。
ふらっとどこかへ行ってしまった。
そして我が家は母子家庭になった。
父がいない家は平和だった。むしろいなくなってよかったと思っていた。
母も姉も口にだして言わないが、みなそう思っていた。平穏な暮らしになった。
お金はなかったが、1つ心配が減ったことで暗澹たる重たい空気が晴れ出した。
崩落した炭鉱に閉じ込められていた者達がついに、外にでられた。
解き放たれた。
我が家ライフ シーズン2である。
お金はなくても、子どもは運動ができたらいいとか、元気ならそれでいいみたいな状態だった。
習い事はなにもせず、家で勉強をする習慣も身につかず、学校の成績は地面にぶつかり墜落。ギリギリの低空飛行。体育だけは輝いていた。
父がいたとき、家庭では勉強する精神状態を維持することができなかった結果、勉強はできなかった。
「どうせ勉強してもお前なんてなんにもならんだろ」
教育を受けていない親は、教育の重要性が分からないので、子どもには自分の知っていることしか伝えることができない。
負のループである。
我が家がすこしづつ安心できる家らしくなってはきたが、そんなとき母親が乳がんと子宮のがんの手術をした。母の身体はボロボロだった。
手術の影響で右手は肩よりも上にあげることはできなかった。
体重も40キロを切るときもあった。
どこからみても不健康のお見本であった。
それでも母は笑顔だった。
満身創痍の状況でも母は昼と夜のダブルワークで父親が残した借金の返済と、二人の子どもを育てるために休むことはなかった。
その後、幸いにもがんは再発しなかった。
それから僕が高校を卒業するまでの8年間、細くて筋肉がない腕でお金を稼ぎ、子どもが飢え死にしないように育ててくれた。
そんな悲壮な状況の渦中にいたためか、非行に走ることや、親に反抗する なんてことを思うこともなかった。
これ以上母に負担をかけたら、ギリギリでなんとか倒れないジェンガばりの暮らしは簡単に終了してしまうと思っていたからだ。
高校一年生のときには、同級生の父親が営む建設会社の建築現場でアルバイトをさせてもらった。
1日8000円を稼ぐことができた。たしかキヤマくんだった。いまでも感謝している。でもなぜか名前をはっきり記憶していないという…
15歳にとっては大金である。仕事をすればお金を稼ぐことができるんだ。
「これで貧困から脱出できんじゃ?」
と考えるようになった。
アルバイトで稼いだお金の半分は母にあげた。半分は自分のために貯金した。
ゲームや漫画、ラジコンなど生きるために必要じゃないモノを買うという欲求はあった。
しかし、それ以上にお金がないことの不安が大きく、不安な生活をするのは嫌だ。バイトすることは生命を維持すること。翌月も暮らしていける糧であると考えていた。
世の中は平等ではない。
と気づいたのはこの頃。
親ガチャの大はずれを引いてしまったのか。
幸いなことに富が与えられている者との差にネガティブな影響をうけることよりも、自分の行動によりなにかできることがあるかもしれないと、ポジティブに考えることができていた。
お金がないことは不便ではあるが、不幸ではなかった。
男子高校生ができるバイトは基本肉体労働である。新聞配達、工事現場の清掃、引っ越しの荷物運搬、宅配便の仕分け、お弁当の配達などだ。
クラスメートが遊んでいるときも、働いていた。
どうやったら、負のループから抜け出し、キラキラする側に行けるのかを考えていた。
どんなに願っても、奇跡は起きなかった。
宝くじが当たることもない。
実は親戚が大富豪で、その遺産が転がり込んでくることもなかった。
神さまは僕をあっち側の人間にはしてくれなかった。
僕ができることは2つしかなかった。
それは勉強とバイト。
塾に行くお金はなかった。学校の勉強ならちゃんと授業を聞いて復習すれば理解はできた。
そして予習もすればさらに勉強の効率も上がり、試験では学年上位の成績が取れるようになった。
偏差値が低い公立高校で、試験の難易度は低かったからだ。
学年全体の平均点が低いため勉強すればかなり良い結果が数字で表れる。
点数が良いと、高い評価を得られ、周囲からの評価も高まる。
この最下層&かなり狭い世界でトップクラスに食い込むことができた。
それで自分の自己承認もできるようになり、勉強することが楽しくなった。そのサイクルに入ってからは、勉強すれば知識が身に付き、知識は世界を広げてくれた。
自尊心が高まった。
踊るエジソン。自尊心だ。
世の中は平等ではないが、知識があればその差を埋める方法が見つかるかもしれない。
この頃から、知識は自分の価値を高め、結果得られる収入も高められることに気づいた。
しかし、ゼロスキル高校生が高度な頭脳労働の仕事ができることもなく、引き続き肉体労働をしていた。
その結果、高校三年生になる頃には、いい筋肉のついた身体になった。
なんというポジティブ思考。脳も筋肉で構成されていたのだ。
肉体労働のしんどさを経験し、高単価な仕事とはなにか?差別化できるスキルはないか?
短絡的に一発逆転するには英語だ。
と留学することを決めていた。
しかし生活困窮世帯が留学するには資金が絶望的に足りなかった。
その後、ワーキングホリデーの制度を知り、手元にあった貯金20万円から学費を貯め、カナダへ渡航した。
カナダでの話は割愛するが、カナダで英語とプログラミングを身につけた僕はその6年後、ようやくお金の心配をせずに日々の生活ができるようになった。
かなり遠回りしたが、何者でもない自分がカナダで父親の呪縛から抜け出すことができ、経済的にも余裕を持つことができた。
なぜこんな話をしたのか?
もしかしたらいつかこれを読むかもしれない娘たちへのメッセージである。父の人生はもう折り返している。残された人生はこれまで過ぎた年月よりもたぶん短いし、記憶力も曖昧になり、ぼーっとするおじいさんになっていく。その前に父が覚えていることを伝えたいと思う。
自分の置かれた環境で、自分がやりたいこと、将来の選択肢を限定してはいけない。
お金がないことを理由にしたり、言い訳にしてはならない。
お金が足りないなら知恵を絞る。知恵がないなら出てくるまで行動する。
娘にはなりたい姿をなんの制限なく想像してもらいたいし、そうしているつもりだ。
世の中に存在する仕事であれば、誰かがそれをやっているので、娘にもその仕事ができるようになる可能性はある。
NASAでロケットを作ることだってできる。
「そんなの無理だよ」とドリームクラッシャーが言うことを聞いてはいけない。自分でやったことがない人の意見の信憑性はない。ただ感想を言うだけのコメンテーターだ。
パパは大学でプログラミングを学び、理系に進んだので、娘にもできればエンジニアという選択肢も候補に入れておいてもらおうと、プログラミング塾に通わせて今からロジカル思考を仕込んでいる。
「どうせ私にはできない」
とは言ってはならない。
なぜできないと決めつけるのか?
パパは自分で決めつけていたからだ。
お金がないから不幸だと思っていた。不運な家庭に産まれた自分はどうせ大した人にはならない。
それならひっそりと夢も見ず、希望も持たずに生きていたらいいのだと。
何者でもない自分の考え方が変わったのは、教育の重要さを肉体労働を通じて、勉強の意味を学んだからである。
風呂なしボロアパートで体育座りしていてもなにも変わらない。誰も自分を引き上げることもない。
変われるのは自分の考え方と行動である。
昭和時代の当たり前が令和の時代では意味がないことも多い。
親の世代では、勉強するのは良い会社に就職するためだった。
しかし勉強する理由は誰かに雇ってもらうためではない。
時代は変わったのだ。娘には生きるスキルを身に付けるために勉強してほしい。
そのため今日も父はあなたがたくさん学び、成長できる環境を用意し、時間と予算が許す限りたくさんの経験をさせてあげたいと考え用意している。
だからいつかくるであろう反抗期にはパパウザいと言ってもいいけど、優しくしてくれるよう願っている。
先は長いようで短い。一瞬で過ぎ去ってしまう可能性を逃さないようアンテナを高くして日々学んでいこう。